月夜野イインターを降りて猿ヶ京温泉方面に向かう途中に名胡桃城跡はあります。名胡桃城は中継点として重要な役割を果たしていたそうです。実際、私も名胡桃城跡に行って来ましたが非常に眺めがいい場所です。沼田、月夜野一帯と赤城山が一望できます。その景色を見ながら・・・『真田昌幸も同じ景色を見ていたのかも?』なんて思ってしまいました。歴史に興味がある方は楽しめると思いますよ。興味がない方にはただの原っぱですが・・・・。
名胡桃城の歴史
名胡桃城は関東と越後をつなぐ街道筋に位置し、越後勢の関東進出コースにあたります。また南西には赤根峠、千貫峠などがあり信州勢の進出コースにあたるなど、軍略上の重要地点です。こうした戦略ポイントに築かれたこの城は生活拠点防衛用の城ではなく、あくまでも作戦上の必要から維持される地域制圧用の拠点といえます。
天正8年(1580年)以来真田氏の支配下にあった沼田一帯は豊臣秀吉の和平工作により天正17年北条氏に譲り渡されました。利根川右岸の拠点である名胡桃城は真田氏の手に残されましたが、ここを北条勢が奪い取ったことをきっかけに秀吉による小田原攻めが始まり、北条一族は滅亡し秀吉の天下統一が実現されました。
城は利根川右岸の段丘崖と段丘を渓谷状に抉って流れる湯舟川に挟まれた突出部に設けられています。城のある段丘端を東西に区分する小さな谷の東に般若郭(はんにゃくるわ)、西に本丸や丸馬出しなどが空堀に区切られて配置されています。般若郭は周辺を堀と柵で囲み、その中に9棟の建物が建てられた居住空間であったことが確認されました。二郭(にのくるわ)・三郭(さんのくるわ)などから見つかった石垣や出撃通路の門跡、土塁の築かれ方から、現在の配置になるまでに改築工事があったことがうかがわれます。
攻防の中心となった馬出し堀から掘り出された鉄砲玉は、戦国時代の国内産の鉛が使われています。また銅合金の鉄砲玉も見つかっています。銅製の弾は軍事用にのみ使用されたもので、いずれも名胡桃城の争奪戦が繰り広げられた頃の遺品です。