先日の社員研修でせっかく行ったのに紹介しておりませんでしたので、今更ながら紹介しておきます。
今治はタオルで有名な土地ですが、城マニアの我々夫婦は少し足を伸ばして今治城に行ってきました。
今治城は築城巧者の藤堂高虎が築城した城です。
その名に恥じない立派な城で、お堀には海水を流すという珍しいお城でした。
中にはたくさんの歴史的資料があり、これだけの資料が残っているのも歴史深い場所だったと言えるでしょう。
かの有名な徳川家康も藤堂高虎の築城術をまねてお城を作ったようです。
なかなかいいお城だったので皆さんもぜひ言ってみてはいかがですか?
楽しいですよ。。。
藤堂高虎とは???
藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から安土桃山時代、江戸時代前期にかけての武将・大名。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。
何度も主君を変えた戦国武将として知られる。それは彼自身の「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という発言に表れている。
築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城した。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。
今治城の歴史
1602年(慶長7年)、藤堂高虎によって築城開始され1604年(慶長9年)に完成した。普請奉行として渡辺勘兵衛の名が知られる。今治城完成以前の今治の支配拠点は、唐子山山頂にあった国府城であったが、より能率的な都市経営を目指すため築城された。構造は、三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることができるなど海上交通の要所今治らしく海を最大限に活用した城となっている。日本三大水城の一つに数えられている。
二之丸に藩主館、中堀以内に側近武士の屋敷、外堀以内に侍屋敷、城門が9ヶ所、櫓が20ヶ所と非常に広大な造りだった。1609年(慶長14年)、高虎が伊勢国津城に移封となり、同時に天守は丹波国亀山城に移築されたと伝わる。高虎自身は移封されたが今治領2万石は飛び地として残り養子の高吉が居城した。
1635年(寛永12年)、高吉は伊賀国名張に移り、代わって伊勢国長島城より松平(久松)定房が入城し、以後、明治維新まで今治藩・久松松平氏の居城となった。広大な城郭は江戸260年間保たれたが、明治維新以後、廃城令によりに建築物は破却された。