箱根に着いての二日目は小田原城に行ってきました。
小田原城は北条氏が5代にわたって栄えた城としても有名ですね。
実はわれわれが住むあたりには小田原城と少し縁があります。
北条氏の全盛期には、沼田あたりまで北条氏の領土だったようです。
豊臣秀吉の天下平定後は沼田城は北条、名胡桃は真田に落ち着いたのですが、北条が名胡桃城に攻め込んだ事に秀吉の怒りを買い小田原攻めが始まったといわれています。
小田原攻めの起点になった名胡桃城は現在城址だけになっていますが、歴史を知ると結構面白いですね。
名胡桃城と小田原城の歴史も載せておきますのでぜひ読んでくださいね。
名胡桃城とは?
築城時期は、伝承によれば室町時代の明応元年(1492年)に沼田城の支城として沼田氏によって築かれたとされている。史料上では、越後の上杉氏と同盟して上野へ侵攻していた甲斐の武田氏が天正7年(1579年)に家臣の真田昌幸に命じて、後北条氏から沼田領を奪取するためにその前線基地として築いた城である。昌幸は名胡桃城を内応させ、ここを足がかりとして沼田城を攻略する。
その後、武田氏滅亡後に独立した真田氏と後北条氏が沼田・吾妻領をめぐって争う。天正17年(1589年)、豊臣秀吉の調停で沼田城を含む利根沼田の3分の2は後北条氏に、名胡桃城を含む残り3分の1は真田氏の領地になり、鈴木重則が守備した。後北条氏は沼田城の城代に猪俣邦憲を置き、邦憲は同年11月に南西の榛名峠城から名胡桃城を奪取した(名胡桃事件)。これが秀吉の怒りをかい、惣無事令に違反したとして翌年秀吉によって小田原征伐が行われる。小田原征伐で後北条氏が滅亡し、真田氏の沼田領が安堵されると、名胡桃城は廃城となる。
小田原城とは?
元々は、平安時代末期、相模国の豪族土肥氏一族である小早川遠平(小早川氏の祖とされる)の居館であったが、室町時代中期、1416年(応永23年)の上杉禅秀の乱で禅秀方であった土肥氏が失脚し、駿河国に根拠を置いていた大森氏がこれを奪って、相模国・伊豆国方面に勢力を広げた。
1495年(明応4年)(ただし年代をそれ以後とする説もある)、伊豆国を支配していた伊勢平氏流伊勢盛時が大森藤頼から奪い、旧構を大幅に拡張した。以来北条氏政、北条氏直父子の時代まで戦国大名北条氏の5代にわたる居城として、南関東の政治的中心地となった。
1590年(天正18年) 豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして隠居北条氏政と当主氏直が指揮する北条氏と開戦し、当時北条の台頭に対抗していた関東の大名・宇都宮国綱や佐竹義重らとともに小田原城を総攻撃した。一般的に小田原征伐(最近は「小田原合戦」が主流)と呼ばれるこの戦役において秀吉は圧倒的な物資をもって取り囲むとともに別働隊をもって関東各地の北条氏の支城を各個撃破し、篭城戦によって敵の兵糧不足を待ち逆襲しようとした北条氏の意図を挫き、3ヶ月の篭城戦の末ほとんど無血で開城させた。この篭城戦において、北条側が和議と抗戦継続をめぐって議論したが一向に結論が出なかった故事が小田原評定という言葉になっている。その後秀吉は国綱とともに下野国宇都宮に陣を移し、参陣した東北地方の諸大名の処遇を決定、秀吉の国内統一事業はこれを以って完成した(宇都宮仕置)。
北条氏は、居館を現在の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山を詰の城としていた。大森氏も、そうであったと推測されている。3代当主北条氏康の時代には、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。
北条時代において外郭は総延長9キロメートルに及んだ。1614年(慶長19年)、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いてこの惣構を撤去させている。地方の城郭にこのような大規模な惣構えがあることを警戒していたという説もある。
復興天守現在の小田原城址の主郭部分は、大久保氏時代に造営されたものである。佐倉城や川越城などのように、土塁の城の多い関東地方において主要部の全てに石垣を用いた総石垣造りの城であるが、現在のような総石垣の城になったのは1632年(寛永9年)に始められた大改修後のことである。2代藩主大久保忠隣の時代、政争に敗れ改易の憂き目にあっている。一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。
その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、そして再興された大久保氏が再び入封された。小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。
なお、小田原藩大久保氏の大名となった支藩(分家)には荻野山中藩(現在の神奈川県厚木市)がある。
小田原城は、江戸時代を通して1633年(寛永10年)と1703年(元禄16年)の2度も大地震に遭い、なかでも、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けている。天守が再建されたのは1706年(宝永3年)で、この再建天守は明治に解体されるまで存続した。