奈良遠征の城めぐり その2 美濃攻略の拠点 小牧山城址

清洲城に続いて小牧山の城址公園にもいってきました。
小牧・長久手の戦いと信長美濃攻略の舞台でもあります。
今は公園と散歩コースがあり、山頂には歴史資料館がありました。
我々は歴史資料館を見に行くため、小牧山の山道を20分かけて登ったのですが・・・・なんと歴史資料館はお休みでした。
でもどんな所かわかったので満足です。
小牧山は自然保護区にもなっているらしく野鳥がたくさん飛んでいました。
山道を帰る途中、木をつついていたので思わず 『パシャリ!』 。
なかなかいい場所でした。
今度は運動もかねてお弁当でも持ってくるといいかもしれません。
山を一周すると1時間くらいはかかるのではないでしょうか?
運動不足の私には少し応えましたが・・・・・。
小牧山の歴史
織田信長は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)の桶狭間の戦いに勝利したのち、念願の美濃国併呑を実現すべく、早くもその3ヶ月後から美濃攻めを開始した。永禄5年1月15日(1562年2月18日)には徳川家康と清須城においていわゆる清洲同盟を結び、完全に東側の脅威がなくなった。ここにおいて、信長は全力で美濃を攻める体制をつくるために、本拠地ごと北方へ前進する策を採った。この新しい本拠地に選ばれたのが、広大な濃尾平野の中に孤峰を保つ小牧山であった。早速、丹羽長秀を奉行として小牧山山頂に城を築き、永禄6年7月には主要兵力をそっくり小牧山城に移した。
この小牧山移転にはあるエピソードがある。清須から北方へ移転するという噂が織田家中でささやかれ、誰もが不服に思っていた。そこで信長は一計を案じ、小牧山よりさらに北方の丹羽郡二ノ宮山(現・愛知県犬山市楽田地区二ノ宮の本宮山)に城を築き移転すると布告した。果然清須城内は反対一色となった。信長は反対意見が十分に出たころを見計らい、家中の意見を吟味した結果として、移転先を小牧山に変更することを申し渡した。すると、今度はほとんど反対意見もなく、皆小牧山への移転に同意したという。この計略は人間心理をたくみに利用したものであり、似たようなエピソードは古今東西に多数あることから本当かどうかはわからないが、それでも応永年間以来約150年間にわたって国府として栄えた清須から他の地へ移ることへの抵抗が大きかったことを想像させる。
信長が築いた小牧山城の構造は、山全体(約21ha)を城域とし、多数の曲輪と重臣の館から成っていたということがわかっている。また、山麓南側から西側にかけては、清須から移転させた城下町が形成された。移転後、織田軍は小牧山城を本拠地として美濃への侵攻を繰り返し、ついに永禄10年8月15日(1567年9月17日)、美濃稲葉山城は落城、信長は稲葉山城を岐阜城と改めて移住した。これにより、小牧山城は約4年間の役目を終え、廃城となった。
小牧山城址