今日はお休みだったので猿ヶ京温泉の名付け親でもある上杉謙信で有名な春日山城に行ってきました!!
正確には春日山城址ですね(笑)
今残っているのは春日山神社と本丸と武家屋敷後をつなぐハイキングコースだけですが・・・・その跡地の広さだけでも天下の名城だった事がわかるほどわかりました。
本丸の頂上まで行くとあたり一面を見渡せます。
上杉謙信と同じ景色を見てるかと思うと急に嬉しくなりました(笑)
謙信はこの絶景を見て何を考えていたんでしょうね?
ちなみに上杉謙信は関東に出兵する際に何回も三国峠を越えて猿ヶ京温泉を通ったり宿泊したりしていたそうです。
なので猿ヶ京温泉は上杉謙信ゆかりの地なのです。
上杉謙信と春日山城の歴史
春日山城の築城年代は定かでないが、南北朝時代には越後守護上杉氏の守護代である長尾氏の拠点の一つであったといわれている。
応仁の乱後の下克上の時代となると、長尾為景(上杉謙信の父)は守護の上杉房能(ふさよし)を殺害し、同族の上杉定実を守護にして越後の実権を手中にした。
永正年間(1504?1518)長尾為景はそれまでの居城であった府中(直江津)から頸城平野と日本海を見下ろす標高180mの鉢ヶ峯の頂に春日山城を築城した。
天文5年(1536)春日山城で長尾為景が没すると、その子の長尾晴景が家督を継いだが、晴景は病弱であったため、守護職上杉氏の養子問題に絡む動乱をおさめきれず、越後内の豪族たちは各地で戦いに明け暮れた。
その戦火が中越地方にも広がってきたため、晴景は春日山城下の林泉寺で修行の日々を送っていた弟長尾景虎(後の上杉謙信)を自分の名代として中越の要であった栃尾城に送り込んだ。時に天文12年(1543)、景虎14歳の時のことである。
若輩ながら景虎は国中を平定。周辺の諸将は景虎を守護代に推挙し、兄晴景と争った末、天文17年(1548)19歳で守護代職に就き、春日山城主となった。
天文21年(1552)には小田原北条氏によって追放された関東管領上杉憲政を迎え入れ、その名跡を譲られて上杉姓を名乗ることになる。
上杉謙信は春日山城を大修築し、その身は遠征に明け暮れた。三国峠を越えて関東に出陣すること十数回、信州川中島で武田信玄と相まみえること五度、能登・加賀へは十度も出陣。謙信にとってすべての戦いは他国を侵すものを討つという正義の戦いであった。
天正6年(1578)その謙信も脳出血で倒れ、49歳の生涯を閉じた。謙信には実子がなく、その死後、跡目相続をめぐって景勝と三郎景虎の二人の養子の間に争いが起こった。世にいう「御館(みたて)の乱」である。この乱で勝利をおさめた上杉景勝が春日山城主となり、三郎景虎は自刃。
上杉景勝は春日山城に20年余在城したが、慶長3年(1598)豊臣秀吉によって会津若松に移封。替わって越前北ノ庄から堀秀治が春日山城主となるが、その子忠俊の時に不便な山城から平地の福島城に移ったため、戦国時代の大要塞春日山城は歴史的な役割を終えた。時に慶長12年(1607)のことである。