福沢一郎の絵と旅籠屋丸一|フロントの巨大画に物語を想う

旅籠屋丸一のフロントに展示された福沢一郎の巨大な人物群像画

旅籠屋丸一のフロントへ入ると、まず目に飛び込んでくる一枚があります。横に長く、壁の空気まで押し広げるような人物群像。福沢一郎の絵です。

受付を済ませるまでの短い時間にも、絵の前でふと足を止めるお客様がいらっしゃいます。あの人は何を見ているのだろう。伸ばされた腕の先には何があるのだろう。答えを急がず眺めていると、古い梁のある空間に、絵の中の時間が重なってくるようです。

福沢一郎とは、群馬県富岡市に生まれた画家

福沢一郎は1898年、現在の群馬県富岡市に生まれました。福沢一郎記念館によれば、はじめは彫刻を学び、1924年に渡仏。やがて絵画へ本格的に取り組み、帰国後は前衛絵画運動を牽引する存在となりました。

昭和初期の日本へシュルレアリスム絵画を紹介した画家として知られますが、その仕事はひとつの様式だけでは語れません。画題や作風を変えながら、人間や社会を見つめ続けたこと。量感のある人体、独特の色彩、そして乾いた批判精神。記念館は、それらを福沢作品の大きな特徴として紹介しています。

1978年に文化功労者、1991年に文化勲章。94年の生涯を通して描き続けた、群馬ゆかりの洋画家です。詳しい歩みは福沢一郎記念館「福沢一郎とは」公式年表でたどることができます。

フロントの巨大画、その前に立つ

丸一の巨大画は、人物たちの身体が連なり、腕や視線が画面の外へまで続いていくように見えます。明るい黄や緑を背景に、黒い線と褐色の身体が強くせめぎ合う。近くでは筆の勢いが迫り、少し離れると人の群れ全体がひとつの大きな動きになります。

この作品は、かつて上毛新聞社に長く展示されていたものだと、私どもは聞いています。ただし、作品名、制作年、展示期間などを裏付ける一次資料は現在確認できていません。だからこそ、確かな事実と宿に伝わる記憶を分けながら、大切に見守っていきたいと思っています。

新聞社の建物で、多くの人の行き来を見つめていた時代があったのだとすれば、いま旅人を迎えるフロントに掛かっていることにも、不思議な物語を感じます。場所は変わっても、絵はまた人が集まるところにいる。その巡り合わせに、ついロマンを馳せてしまうのです。

線の向こうに、物語を探す

旅籠屋丸一に展示された福沢一郎作品の橙色の人物と手の細部
鮮やかな橙色と黒い線が重なる、福沢一郎作品の一部(旅籠屋丸一提供・使用許諾済み)。

館内には、福沢一郎の別の作品も展示しています。鮮やかな橙色の人物、祈るようにも押し返すようにも見える手、空へ伸びる身体。何が起きている場面なのか、見る人によって想像は変わるでしょう。

美術鑑賞には、最初から正解を持ってくる必要はありません。題名や解説を読む前に、まず色や線へ近づいてみる。好き、怖い、面白い。そんな小さな感覚を入り口にしてよいのだと思います。

古い箪笥と書、洋画が同じ廊下にある

古い箪笥や書とともに福沢一郎の作品が展示された旅籠屋丸一の廊下
古い箪笥、書、洋画が同じ時間の中に並ぶ館内(旅籠屋丸一提供・使用許諾済み)。

丸一の館内では、福沢一郎の絵だけが孤立しているわけではありません。古い箪笥、器、書、木の柱と床。その間に洋画が掛かり、歩く速度によって見え方が変わります。

美術館の白い壁とは違い、宿では朝と夜で光が変わり、人の声や足音も作品のそばを通ります。旅の途中に何度も同じ絵の前を通り、二度目に別の人物へ目が向く。泊まる場所だからこそできる鑑賞があります。

福沢一郎のご家族が訪れた場所

現在フロントとして使っているこの場所には、福沢一郎のご息女にもお越しいただいたことがあります。画家本人と直接言葉を交わした場所ではありません。それでも、ご家族が絵のある空間を訪ねてくださった記憶は、私たちにとって作品との縁を実感させる出来事でした。

富岡で生まれ、パリへ渡り、日本や世界を見つめて描いた画家。その作品が群馬の山あいにある宿へたどり着き、いまも旅人を迎えている。来歴のすべてが明らかでなくても、絵の前に立つと時間の層を感じます。

旅の途中で、絵の前に余白を

温泉へ急ぐ前でも、出発前の朝でも構いません。フロントの巨大画の前で、ほんの少し立ち止まってみてください。一人の人物を見る日もあれば、群れ全体が迫ってくる日もあるでしょう。

作品を理解しきることより、心が動いた瞬間を持ち帰ること。そんな時間も、日常に回復の余白をつくる旅の一部だと思っています。

館内の考え方や宿の歩みは旅籠屋丸一についてでご紹介しています。次に丸一へお越しの際は、絵の中の誰かと目を合わせるような気持ちで、ゆっくりご覧ください。


この記事を書いた人

窪田 一生
旅籠屋丸一 代表取締役/15代目

群馬県・猿ヶ京温泉生まれ。宿に受け継がれてきた建物、道具、書画と、その背後にある人の物語をお届けしています。

フロント作品の旧展示先およびご家族の来訪については、旅籠屋丸一に伝わる記憶と宿主の認識に基づきます。作品名、制作年、旧展示期間は一次資料を確認できていないため、本記事では断定していません。掲載写真は旅籠屋丸一提供・使用許諾済みです。