旅籠屋丸一の客室名にある三つの木|椎・楢・椚から読む里山

旅籠屋丸一の客室・楢の畳と木のしつらえ

旅籠屋丸一には、扉の前で一度、読み方を確かめたくなる客室があります。椎(しい)、楢(なら)、椚(くぬぎ)。どれも木の名です。

この三室がある建物は「万葉亭」と呼ばれています。万葉亭という名は、万葉集のなかに月夜野のあたりを思わせる話があることから名づけられた――そんな話が宿に伝わっています。遠い時代の歌と、月の光がよく似合う土地。その響きを建物の名へ託したのだと思うと、廊下の静けさにも少しロマンが宿ります。

鍵を手に歩き、小さな木札を見上げる。たった一文字なのに、森の匂いや、落ち葉を踏む音まで連れてくるようです。今日は部屋の広さや設備ではなく、万葉亭と客室の名前から、猿ヶ京の里山へ寄り道してみましょう。

万葉集の余韻を、建物の名に残す

月夜野という地名には、夜空を見上げたくなる美しい響きがあります。万葉の歌人も同じ月を眺めたのだろうか。三国の山を越える旅人は、どんな夜を過ごしたのだろうか。答えを一つに決めず、時代の向こうへ想像を遊ばせられることが、名前のよさなのでしょう。

万葉亭で過ごす夜、障子や畳に落ちる淡い光を眺めながら、その名の由来をふと思い出していただけたら。宿の建物は、泊まるための器であると同時に、土地の記憶を受け渡す場所でもあります。

客室名は、里山の広葉樹から

椎、楢、椚という客室名は、広葉樹の木の名前から採られています。名札だけを見れば端正な一文字ですが、その向こうには葉の形、木肌、どんぐり、そして季節ごとに色を変える森があります。

椎・楢・椚、三つともどんぐりの仲間

三つの木は、いずれもブナ科につながる木です。ただし「楢」は一つの樹種だけを指す名前ではなく、一般にはコナラやミズナラなど、落葉するどんぐりの仲間を広く呼ぶ言葉です。森林総合研究所は、ナラの仲間について、切られても株元から芽を伸ばす力や、どんぐりを動物が運ぶ面白さを紹介しています。

椎の仲間は、一年を通して艶のある葉を保つ常緑広葉樹。森林総合研究所によれば、日本のシイノキにはスダジイとコジイがあり、暖かな地域の照葉樹林を代表します。楢や椚とは、同じどんぐりの親戚でありながら、冬の装いが違うのです。

「椚」は、雑木林のにぎやかな木

旅籠屋丸一の客室・椎の木製客室札
木肌を残した客室「椎」の札。短い一文字の奥に、常緑の森をつくる木の姿が重なります。写真:旅籠屋丸一提供(ブログ使用許諾済み)

椚と書いて、くぬぎ。森林総合研究所では、本州以西に広く分布する落葉高木で、コナラとともに雑木林を代表する木とされています。丸いどんぐりには、細長い鱗片が広がる、少し豪快な帽子。樹液にはカブトムシやクワガタが集まり、材は椎茸のほだ木や薪、炭にも使われてきました。

見た目にも、暮らしとの関わりにも、どこか親しみがあります。夏休みの虫捕り、秋のどんぐり、冬の炭火。椚という一文字には、里山の一年が収まっているようです。

楢の森は、人が手を入れながら受け継いだ

林野庁によると、コナラやクヌギなどの広葉樹が多い里山林は、古くから薪や炭、山菜、農業の資材を得る場所でした。伐ったあとに芽吹く力を生かし、二十年、三十年という時間で森を巡らせてきたのです。

「自然」と「人の暮らし」は、離れていたのではありません。使い、育て、また芽吹きを待つ。その長い往復が雑木林の景色をつくりました。客室「楢」の落ち着いた畳や木部を眺めていると、そんな人と木の時間まで、室内へ続いているように感じます。

部屋の名を知ると、宿の夜が少し深くなる

当館の公式客室案内では、万葉亭二階に「楢」、そして「椚」「椎」の客室をご案内しています。名前の由来をすべて説明し切るよりも、まずは木の文字を眺めて、その部屋に流れる時間を味わっていただけたらと思います。

窓の外で葉が揺れ、館内では古い柱が静かに夜を支える。湯上がりに客室札を見上げたとき、昼に見た山の輪郭を思い出すことがあるかもしれません。宿で過ごす時間と、外の森が一つにつながる。そんな小さな発見も、日常に回復の余白をつくる旅の一部です。

秋、客室の名が山の色と重なるころ

紅葉に染まる山々と静かな湖を表現した秋の利用イメージ
利用イメージ(AI生成):猿ヶ京温泉の秋を思い浮かべて構成した山々と湖の風景です。特定の場所や現在の紅葉状況を撮影した写真ではありません。

秋になると、楢や椚のような落葉広葉樹は、黄や橙、赤へと装いを変えます。猿ヶ京温泉の紅葉は、例年10月から11月中旬ごろ。山の上から湖畔へ、少しずつ色の波が下りてきます。赤谷湖の水面に秋の山が映る日もあれば、雨上がりの庭で濡れた葉が深く輝く朝もあります。

紅葉は暦どおりに一斉に始まるものではなく、その年の気温や標高で進み方が変わります。だからこそ、訪れた日の色がその旅だけの景色になります。万葉亭へ戻り、「楢」「椚」「椎」の札を見上げれば、昼に眺めた山の色が、客室の名前のなかへそっと続いているようです。

最新の色づきは、みなかみ町観光協会の紅葉情報でご確認いただけます。

旅籠屋丸一へのアクセス

東京方面からお車なら、練馬インターチェンジから関越自動車道で月夜野インターチェンジへ約90分、国道17号で猿ヶ京温泉へ約20分です。公共交通では、東京駅から上越新幹線で上毛高原駅へ約89分、関越交通バスで終点「猿ヶ京」まで約35分。時刻表は変わる場合がありますので、出発前にご確認ください。

詳しい交通案内と地図はこちら。客室の写真や広さは旅籠屋丸一公式・客室案内でご覧いただけます。

参考にした公式情報


この記事を書いた人

窪田 一生
旅籠屋丸一 代表取締役/15代目

群馬県・猿ヶ京温泉生まれ。宿の中に残る名前や道具から、里山の時間をお届けしています。