猿ヶ京温泉の歴史を知ると、赤谷湖の見え方が少し変わります。いまは山と空を静かに映す湖ですが、その水面の下には、川沿いに湯が湧き、人々が行き交った温泉地の記憶があります。
猿ヶ京の歴史には、上杉謙信の地名伝承や三国街道、猿ヶ京関所など、いくつもの時代が重なっています。今回は範囲を昭和の大きな転換に絞り、湯島温泉・笹の湯から現在の猿ヶ京温泉へ移るまでを、確認できる資料に沿ってたどります。
赤谷川のそばにあった湯島温泉と笹の湯
現在の猿ヶ京温泉が湖畔へ移る前、赤谷川の渓谷には湯島温泉と笹の湯がありました。猿ヶ京温泉観光情報協会は、江戸時代に笹の湯・湯島温泉と呼ばれた温泉地が、三国街道沿いでにぎわったと紹介しています。
群馬県が公開する歴史資料には、寛政三年(一七九一)の「猿ヶ京湯島温泉入湯人改め」が残ります。そこには、字湯嶋河原に以前から温泉があったことや、赤谷川の出水との関わりが記されています。いま湖を眺めながら想像する昔の湯は、伝説だけでなく文書にも痕跡を残しているのです。
相俣ダム建設が谷の景色を変えた
国土交通省によると、相俣ダムは群馬県によって昭和二十八年から建設が始まり、その後の漏水対策を含む工事を経て昭和三十四年に竣工しました。一方、みなかみ町観光協会や猿ヶ京温泉観光情報協会は、昭和三十三年に赤谷川がせき止められ、旧温泉地が赤谷湖に沈んだ経緯を伝えています。
資料によって「完成」「試験湛水」「竣工」の年が異なって見えるのは、工事が一度の出来事ではなかったためです。本記事では、昭和三十三年を水没と移転の節目、昭和三十四年を国土交通省資料にある竣工年として区別します。
旧四軒が移り、猿ヶ京温泉になった

みなかみ町観光協会の紹介では、湯島にあった桑原館・長生館・見晴館と、笹の湯にあった相生館の四軒が、代替地となる現在の場所へ移転しました。特許庁の地域団体商標紹介も、相俣ダム建設で旧四軒が場所を移し、近代的なホテル街へ生まれ変わったことを記しています。
建物を移すだけではなく、湯を届け、客を迎え、暮らしをつなぎ直す仕事がありました。湖の誕生は美しい観光景観を生みましたが、その背景には、住む場所と商いの形を変えた人々の決断があります。
現在の宿にも、移り変わる土地の時間がある

旅籠屋丸一が受け継いできた時間も、猿ヶ京という土地の変化と無関係ではありません。庭の木々、古い梁、湯の音。いま目の前にあるものを大切にしながら、昔から同じ形だったと決めつけず、変化の積み重ねとしてお伝えしたいと思っています。
私たちが使う「回復」という言葉も、医療的な効果を示すものではありません。土地の時間に耳を澄まし、日常から少し離れて、自分の歩幅を取り戻すための余白です。
赤谷湖を見るとき、湖底の記憶も思い出す
赤谷湖畔を訪れたら、景色の美しさと一緒に、かつて川沿いに温泉があったことを思い出してみてください。昔の温泉街を正確に目で見ることはできなくても、資料を読み、土地の名前をたどれば、現在へ続く輪郭が見えてきます。
猿ヶ京の歴史をさらに歩くなら、猿ヶ京城址と上杉謙信の伝承もご覧ください。ご宿泊の最新情報は旅籠屋丸一公式サイトでご案内しています。
この記事を書いた人
窪田 一生
旅籠屋丸一 代表取締役/15代目
群馬県・猿ヶ京温泉生まれ。旅籠屋丸一の15代目として、土地と宿の歴史を受け継ぎながら、今の旅人にとっての「回復の余白」を宿の時間へつなぐ仕事をしています。
歴史年表は資料上の用語により年が異なる場合があります。本記事では湛水・移転の節目と竣工年を分けて記載しました。

