相俣ダムの歴史|赤谷湖の底に残る猿ヶ京温泉の記憶

相俣ダムの歴史を想像する赤谷湖と山々の利用イメージ

相俣ダムの歴史を知ると、猿ヶ京温泉から見える赤谷湖が、ただ美しいだけの湖ではなくなります。静かな水面の下には、かつて人が暮らし、湯を囲み、旅人を迎えた土地の時間が重なっているからです。

宿の朝、湖の方角へ目を向けるたび、私はときどき考えます。いま見えている景色が生まれる前、この谷ではどんな声が交わされていたのだろう、と。今回は国土交通省と猿ヶ京温泉旅館協同組合の資料を手がかりに、昭和の大きな変化をたどります。

相俣ダムの歴史は昭和28年の工事から

国土交通省によると、相俣ダムは赤谷川に造られた重力式コンクリートダムです。群馬県が昭和28年(1953年)に建設を始めました。昭和31年(1956年)の試験湛水中に左岸台地部から漏水が発生し、その後は建設省、現在の国土交通省へ移管。漏水防止工事などを経て、昭和34年(1959年)に竣工しました。

現在の穏やかな水面だけを見ると、完成までの難しさはなかなか想像できません。けれど、計画どおり一直線に進んだのではなく、問題へ向き合いながら築かれた施設だったことが分かります。貯水池の名が、私たちのよく知る「赤谷湖」です。

湖の底へ移った、笹の湯と湯島温泉

昭和の猿ヶ京温泉移転を想像する山村の利用イメージ
利用イメージ(AI生成):昭和の山村で暮らしを移す場面を一般化した表現です。人物は実在の住民ではなく、猿ヶ京温泉の移転を記録した写真ではありません。

猿ヶ京温泉旅館協同組合の公式案内には、江戸時代に笹の湯・湯島温泉と呼ばれた三国街道沿いの温泉地が、昭和33年(1958年)、ダム建設によって赤谷湖の底に沈んだと記されています。温泉街は移され、名も改められ、現在の猿ヶ京温泉へつながりました。

「移転」という二文字の中には、家や商いの場所を離れた人々の決断があります。新しい土地へ荷を運び、道を作り直し、もう一度お客様を迎える。その積み重ねがなければ、いまの温泉街の灯りはありません。

景色が変わっても、湯を迎える気持ちは残る

赤谷湖が生まれる前の谷の道を想像する利用イメージ
利用イメージ(AI生成):ダム建設前の山あいの道を一般化した表現です。実在した道路や橋の記録写真ではありません。

古い温泉街と現在の猿ヶ京温泉は、建物も道筋も同じではありません。それでも、遠くから来た旅人に腰を下ろしてもらい、湯と食事と静かな夜を用意する営みは、形を変えながら続いてきました。

旅籠屋丸一も、この土地の長い時間の中でお客様をお迎えしています。歴史とは、昔話を飾って置くことではなく、受け継いだものを今日の一日に手渡すことなのだと思います。日常に回復の余白をつくる宿時間も、先人が残した場所の上にあります。

相俣ダム資料室で建設当時を知る

もう少し深く知りたい方には、相俣ダム管理支所内の資料室があります。国土交通省の案内では、建設当時の映像や写真、航空写真、流域図などを見られます。開館時間は9時から16時30分、休館日は年末年始、入館は無料とされていますが、工事や点検による変更もあるため、お出かけ前に相俣ダム資料室の公式案内をご確認ください。

湖を見る前に資料を知るのもよいですし、湖を眺めたあとに立ち寄るのもよいでしょう。写真の中の谷と、目の前の水面がつながる瞬間があります。

赤谷湖を、二つの時間で眺める

赤谷湖の水面には、現在の空と山が映ります。その下に昔の暮らしがあったことを知れば、一つの景色を「いま」と「かつて」の二つの時間で眺められます。静かに立ち止まるだけでも、土地を知る旅になります。

猿ヶ京温泉の歴史をもう少し広く歩くなら、猿ヶ京城址を歩く前にもあわせてお読みください。宿泊については旅籠屋丸一公式サイトでご案内しています。湖の向こうにある時間まで、ゆっくり受け取る旅をしていただけたらうれしく思います。


猿ヶ京温泉の歴史を訪ねる行き方

猿ヶ京温泉の歴史を訪ねるなら、東京方面から関越自動車道で月夜野ICへ。国道17号を新潟方面に進むと猿ヶ京温泉です。月夜野ICから旅籠屋丸一までは宿の公式案内で約20分。上毛高原駅からは猿ヶ京行きバスで約35分が目安です。詳しくはこちら|丸一の交通案内・地図。


この記事を書いた人

窪田 一生
旅籠屋丸一 代表取締役/15代目

群馬県・猿ヶ京温泉生まれ。宿と土地に残る記憶をたどり、いま訪れる方へやさしく手渡す記事を書いています。

歴史年代とダム諸元は国土交通省、旧温泉街の移転は猿ヶ京温泉旅館協同組合の公式情報を確認しました。見学条件は変更される場合があります。