夕食のあと、廊下の灯りが少し静かになるころ。急ぎ足だったお客様が、壁の前でふと立ち止まることがあります。視線の先にあるのは、勢いよく墨の走る三点の書です。
幕末三舟の書とは、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟という三人の筆を指す呼び名です。三人とも号に「舟」の字を持つことから、いつしか「幕末三舟」と総称されるようになりました。旅籠屋丸一では、この三人の名で伝わる書を一つの額に納め、大切にしてきました。
今日は難しい字を読み解くというより、三つの筆跡の前で立ち止まり、書いた人の生きた時代へ耳を澄ませるようにご案内します。
幕末三舟の書とは|同じ「舟」を持つ三人
国立国会図書館の電子展示では、勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟の三人を、号に「舟」の字を持つことから「幕末の三舟」と呼ぶことがあると紹介しています。ただ、三人が同じ役目を同じように果たしたわけではありません。それぞれの立場と歩みは違い、後世の人が三人を並べて呼ぶようになったものです。
勝海舟は江戸幕府の幕臣として幕末から明治を生き、山岡鉄舟は剣と禅、書で知られながら江戸城開城にも関わりました。高橋泥舟は槍術家で、徳川慶喜の護衛にもあたった人物です。歴史の大きな出来事だけを追うと、名前は年表の中へ収まってしまいます。けれど、その人が残した文字を見ると、急に息づかいや腕の動きが近くなる。書の面白さは、そこにあるように思います。
旅籠屋丸一に伝わる三つの筆跡

丸一にある額は、横長の書を上下に三点配したものです。太く大きく進む線、字の間にたっぷり残る白、筆が紙から離れる瞬間のかすれ。同じ墨の文字でも、眺めていると三者三様の気配が見えてきます。
ここで一つ、正直にお伝えしておきたいことがあります。当館ではこの額を「幕末三舟の書」として伝え、保管していますが、今回の記事では各書の制作年、当館へ渡った経緯、鑑定の履歴までは確認できていません。そのため、書かれている言葉の意味や真筆性を断定するのではなく、宿に受け継がれてきた所蔵資料としてご紹介します。
歴史を扱うとき、分からない部分を想像だけで埋めないことも、古いものを次へ渡す仕事の一つです。分からないことが残るからこそ、調べる余地が生まれ、次の世代へ問いを手渡せるのかもしれません。
海舟・鉄舟・泥舟を、筆の動きから想像する
勝海舟は、幕府と新政府が向き合う時代のただ中で交渉に携わった人物として知られます。山岡鉄舟について国立国会図書館は、幕末から明治にかけて剣客として活躍し、勝海舟との会談実現を通じ江戸城開城に貢献したと紹介しています。高橋泥舟は幕臣であり槍術家。維新後は隠棲し、書画とともに暮らした人物でした。
けれど、額の前では肩書きをいったん脇へ置いてみてください。線が迷わず進むところ。墨が薄くなっても、筆が止まらないところ。書道に詳しくなくても、「この人は思い切りがよさそうだ」「こちらは静かだな」と、自分なりの受け取り方ができます。答え合わせを急がない鑑賞は、温泉宿の夜によく似合います。
古書と書画が残す、宿の時間

旅籠屋丸一には、三舟の額だけでなく、書画や古書、古い道具が残っています。美術館のように番号順に見る場所ではありません。廊下を曲がったとき、部屋へ戻る途中、朝の光が入った壁際で、偶然目に入る。その出会い方を大切にしています。
紙は日に焼け、木には小さな傷があります。新しく整えれば消えてしまうものもありますが、時間の跡まで含めて宿の景色です。三百年を一息に語ることはできなくても、一枚の紙、一筋の墨を眺めると、昔の人も同じように立ち止まったのだろうかと想像できます。
館内の書画をゆっくり楽しみたい方は、旅籠屋丸一で書画を鑑賞する時間もあわせてどうぞ。丸一そのものの歩みは、旅籠屋丸一と万葉亭の歴史でご紹介しています。
歴史の答えより、余韻を持ち帰る
旅先で歴史に触れるというと、年代や人物名を覚えることのように感じるかもしれません。けれど私は、分からない文字の前で数分立ち止まるだけでも、十分な歴史旅だと思っています。
普段なら通り過ぎるものへ目を向ける。墨の濃淡を見て、三人の「舟」を覚えて帰る。その小さな寄り道が、日常に戻る前の回復の余白になります。ここでいう回復は、身体への効能ではなく、時間の速さを少し緩め、自分の感覚を取り戻す体験のことです。
書画の展示場所や公開状況は、保存や館内の都合で変わる場合があります。ご覧になりたい作品があるときは、ご滞在時に宿の者へお声がけください。旅籠屋丸一の現在のご案内は、公式サイトでご確認いただけます。
この記事を書いた人
窪田 一生
旅籠屋丸一 代表取締役/15代目
群馬県・猿ヶ京温泉生まれ。幼少期からテニスに打ち込み、全国大会やオーストラリア留学を経験。
帰国後、堀越高校、中央大学へ進学。
卒業後は中国整体・サプリメント・アロマ関連など、人の身体や暮らしに関わる仕事に携わる。
現在は旅籠屋丸一の代表取締役・15代目として、歴史を受け継ぎながら宿の新しい未来に挑戦中。
このブログでは、猿ヶ京温泉や旅の魅力、宿づくりへの想いをお届けします。

